プロフィール

1984(昭和59)年12月9日、千葉県船橋市生まれ、38歳。神奈川県川崎市で育つ。早稲田大学政治経済学部を卒業後、富士通株式会社にてメガバンクの次期システム構築に携わる。2013年フランスに移住し、ケータリングサービスを起業。2018年帰国。京都にてインバウンド向け事業を起業する。事業の傍ら、パリテ・アカデミーにてシニアトレーナーとして政治家を志す女性たちの活動をサポート。2021年長男を出産。産後うつに悩まされ、日本の産褥ケアシステムの希薄さを実感する。特技は語学、趣味は映画鑑賞と料理。好きな食べ物はパン、麺類、チョコミント、お茶全般。夫の地元の練馬区にて、親子3世代で同居中。

【メディア出演】
・住人十色(MBS) 出演
・フィガロ誌インタビュー
日本経済新聞インタビュー
東京新聞インタビュー
ELLEインタビュー

【社会活動】
一社パリテ・アカデミー シニアトレーナー
・「みんなの未来を選ぶためのチェックリスト 」
Stand by Women サポートメンバー
Fiftys Project

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「イマドキの働き方」
2023年1月号 フィガロジャポン

小学校教員だった両親と4つ上の兄がいる家族でした。0歳から保育園に通っていて、夫婦共働きは私にとって「ふつうのこと」だと思っていました。絵を描くことが大好きで、将来はファッションデザイナーを夢見ていた記憶があります。のほほんとした少女時代が急に終わったのは、小4の時に両親が離婚してからのこと。それからは、父、兄、祖父と4人で暮らすようになりました。

やっぱり寂しさはありながら、母がいなくても生活に不自由はありませんでしたが、最近の「生理の貧困」のニュースに接して、ふと思い出したことがあります。10歳で生理になった私は、トイレで黒いシミを見つけて、それを洗濯カゴの奥深くに隠しました。家事代行で来てくださっていた方が気がついてくれて、そこから叔母に連絡が行き、必要なものは揃えてもらえましたが、生理は毎月のように来ます。10歳の女の子が、自由に使えるお金を充分に持たされているわけではない中で、「ナプキンを買いに行きたい」と父に言うことはどうしても躊躇がありました。だからいつもナプキンを使うのをついケチってしまって、服を汚してしまうことが何度もありました。まだ生理を迎えていない同級生も多く、相談する相手も周りに少なくて、もし、あの時代にナプキンがトイレに置いてあったら、幼い私はどれだけ救われた気持ちになっただろうか、と考えたりもしています。

ちょうどmixiが流行り始めた頃で、寝る間も惜しんで、 ありとあらゆる活動に全力を尽くした大学生活でした。就職活動は、翌2008年に起きるリーマンショック前夜の好景気で、バブル以来の売り手市場の中、仲間たちは次々と内定を獲得。私はだいぶ遠回りもしましたが、最終的に は富士通に拾ってもらうことができました。

会社では、SEとしてメガバンクの次期システムを構築する巨大プロジェクトに在籍していました。右も左もわからない中、懸命に食らいついて業務をこなしてきましたが、あまりに門外漢すぎたこともあり、気がつけば心や体がどんどん蝕まれていき、いつしか頭痛、胃痛、吐き気、不眠、突然に涙が出てくるなど常に情緒不安定な状態に。心療内科に行くと「抑うつ状態」と診断され、休職することになりました。でも、こんな風に一度立ち止まったら元に戻れなくなる気がして、ちゃんと社会人をやれていない自分が恥ずかしく思えて、夫と親友にしかこのことを打ち明けられませんでした。

当時の私には、自分でかけた驚くほどたくさんの「呪い」があったと思っています。「安定した職業に就き、定年まで勤め上げることが偉い」「今の仕事も満足にできてない私に他の就職先なんてあるわけない」「大企業をやめたら私にはなんの価値もなくなる」と、完全に病んでいたと思います。結局1年半あまり休んでも精神状態が回復せず、逃げるようにそのまま会社を辞めることとなりました。

ただ、大きな意味での「コンピュータ」の仕組みに触れ、特に「ミッションクリティカル」と呼ばれる絶対に止まってはいけないシステムに従事できたことは、貴重な経験でした。また、フェアで能力あふれる上司たちの振る舞いに接し、学べたことは、今でも「あるべきリーダー像」のお手本になっています。

その後、2013年に夫婦でフランスへ渡り、語学学校で仏語を学びながら、ケータリングや料理教室の仕事を始めました。多国籍な友人たちと囲むディナーでは、国際情勢や社会の課題、哲学的なトピックが当たり前のようにテーブルを飛び交い、誰でも対等に議論をし合う環境に心地よさを覚えました。移住直後にパリでの同時多発テロが起きたことや、長期滞在をしていたドイツで、シリアやアフガニスタンから難民が押し寄せる現実を目の当たりにしたことなど、政治や国家、あるいは人権といったことを否が応でもダイレクトに考えさせられる経験が山のようにあり、刺激的な日々でした。

帰国後、古い家を見つけた縁から、京都でインバウンド向けの料理教室を開くこととなりました。広告などを打ったわけでもないのに、SNSを通じて海外からの旅行客の方々にたくさん集まっていただき、忙しい毎日を送りました。料理を通してお互いの文化を紹介しあったり、コミュニケーションしたりすることは、本当に素敵なことですね。私の生きがいのひとつです。

そして、この頃、女性議員を増やす取り組みを進める「パリテ・アカデミー」と出会い、東京で開催される女性の政治リーダーシップ養成講座に、京都から夜行バスで通うことになりました。講座修了後にトレーナー職に就き、新たなチャレンジをする女性をサポートする立場になりましたが、いつしか「私自身も議員となって、この国の政治の景色を変えたい」という気持ちが強くなっていきました。

順調だった京都での料理教室は、2020年春からのコロナ禍で外国人観光客がゼロの休業状態に陥り、それをひとつのきっかけに不妊治療を開始し、子どもを授かりました。ところが、出産予定日を控えて血栓が見つかり、総合病院への転院が必要になるなど過酷な出産となったこともあって、私は産後すぐに我が子が怖くて仕方なくなってしまいました。精神科では、「産後うつ」と診断され、乳児院を頼ることに。子どもに申し訳ない気持ちを持ちながら、数日預けてはリフレッシュして、また頑張る日々が続き、夫をはじめ家族や保育園に支えられ、何とかこの時期を乗り越えられました。コロナで母親学級が開催されないなど、行政からのサポートが乏しくなった時期だったこともあってか、SNSでママ同士の交流を細々と続ける中で強く実感したのは、同じように苦しい思いをしながらも、住んでいる場所や環境によっては、地域や家族や実家の手助けがほとんどなく、誰からのヘルプも得られない妊婦や母親も多いという現実でした。この声なき声はどうしたら政治へ届くのだろうか、と怒りと諦めが入り混じった感情をどこにもぶつけられず、それならば私がと、さらに意を強くする契機となっていきました。

今の日本社会は、閉塞感でいっぱいだと痛感しています。それはこれまで男性中心で運営されてきた社会のシステムが、限界に来ているからに他なりませんし、多くの課題の根幹にはジェンダーの問題が横たわっています。それらを是正し、決定権のある立場に女性が増えることが何よりも必要なことだと思いますし、それは女性のみならず、息苦しさを抱える男性にとっても快適な社会を創造することにつながっていくと確信しています。

他の誰かがやってくれるのを待っているだけでは何も変わらない。これからを生きる子どもたちが、性別をはじめとする社会の属性にとらわれすぎることなく、好きなように、あるがままに生きられる社会をつくりたい。そんな自らの素直な心の想いを大切にしながら、練馬区で日々の生活を送るひとりひとりの声に耳を傾け、胸に秘めた炎を受け取り、つなぎ、大きな変化を起こしていきたいと決意しています。